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ドイツの歴史と文化探訪

言語は文化と切っても切れない関係にあります。そして文化は歴史に裏打ちされ,現在まで連綿と続いています。外国語を学ぶとき,これら「文化」「歴史」にふれることは言語の理解の助けとなるばかりか,それが我々の住む日本とはどういう文化を持つ国なのかということを浮かび上がらせてくれます。現代社会を生きる我々に求められている「文化の相対化」は他の文化を知ることでなされるのです。

以下に掲載するのは,1997年度前期ドイツ語フォーラム(Michel教授)でともにプロジェクトを組んだ5人のエッセイです。興味関心にばらつきがあるので,かならずしも表題に適した内容にまとまっているとは言えませんが,ドイツとドイツ文化の広がりの一端を感じていただくことができると思い,ほぼ原文のまま掲載しています。

ドイツの祭り [祐恒伸次(九州大学法学部・平成12年卒業)]

ドイツにおける日常生活にとって祭りは重要な役割を果たしている。年間の祭りの日程は時節を構成しており,日本のように四季を明確にしている。

2年間に行われる多くの祭りはキリスト教と結びついている。1月6日に行われる顕現日(Heilige Drei Koenige)も同様にキリストの物語と関係している。この日は新しく誕生した救世主であるイエスの具現を確かめるために,東方の国から三博士が訪れたことを考える日である。昔は子供たちがこの日に町中を歩き,供え物を集めていたそうだが現在ではほとんど行われていない。

2月には謝肉祭(Fastnacht)があるが,これは大規模であり,昔からカトリック地域以外でも重んじられている。カトリック聖暦年では復活祭までの40日間にもわたる精進期の始まりである。復活祭は春分の日の後の最初の満月後の第1日曜日になるので,毎年異なる。謝肉祭で最も有名なのは,ライン地方でのカーニバルの大行列である。ケルン,ミュンヒェンなどの都市では数キロメートルにもおよぶパレードが見られる。パレードは楽隊,揃いの服を着てダンスをする集団や,世界各国の生活様式を茶化した飾り付けを乗せた車などから成りたっている。

聖暦年における次の祭りは復活祭(Ostersonntag)である。これは,キリスト教儀式のうちで救済者の復活を記念する祭りである。カトリックの教会では復活祭の前の木曜日(聖木曜日)から復活祭まで鐘突きが中止されている。復活祭の現代的な意味は贈り物にある。親は子供に様々な色のついた「復活祭の卵」や「チョコレートの卵」,「菓子類」などを贈る。この面白いところは贈り主によって家の中に隠された贈り物を復活祭の朝に探し出すことである。

復活祭の次にくる祭りは5月1日のメーデー(Maifeiertag)である。ナチスの時代,5月1日は国家が命令した「労働の日」となって,生気を失いつつあったが現代ではそういったものは無くなってきている。

次の祭日はキリスト昇天祭となっている。つまり父の日である。母の日は5月の第2日曜日で,日本のようにカーネーションを贈ったりする。

復活祭後第7日曜日には聖霊降臨祭(Pfingstmontag)というものがあり,新約聖書の伝承を思い起こさせる。その後の第2木曜日は聖体節(Fronleichnam)とよばれ,カトリックの祭りであり,信者による行列で信仰の力を示すのである。

夏になると祭日がなくなり,長期休暇でみんな旅行にいく。秋になるとまた重要な祭りがやってくる。10月31日の宗教改革祭(Reformationstag)である。この日は宗教改革の始まりを記した「95ヶ条の論題」を記念する日だ。そして11月1日は万聖節(Allerheiligen)といわれており,カトリックの村では亡くなった人々を思い起こす日になっている。

クリスマスの1ヶ月ぐらい前(待降祭:Advent)からクリスマスにかけて,キリスト降誕祭に対する心構えが始まる。12月6日は聖ニコラウス祭日と呼ばれていて,子供たちはプレゼントをもらえる。そして12月31日の大晦日(Silvester)を迎えて次の年がくるのである。

次に地方特有の祭りを挙げていく。まずはミュンヒェンの十月祭がある。これはビール祭ともいわれ,16日間ミュンヒェンのテレジエンで行われ,ビールとバイエルンのソーセージを食べるものである。次にバイエルン州やノルトライン=ウエストファーレン州が中心となって行う「射撃祭」がある。こういったあらゆる祭りは多くの観客を文化的催しに引きつけるのに成功し,また諸外国の人々をドイツの文化に興味を抱かせているのである。

印象深い街 [手島健一郎(九州大学法学部・平成12年卒業)]

自分は1997年3月にドイツへ1ヶ月間旅行に行ったのですが,そのときには短時間だけしかいなかった街なども含めると多くの街を訪れました。その中には誰でも訪れるような有名な街から,あまり日本人には知られていないような街までいろいろなところへ行ってきました。もう2度と行きたくない街もありましたが,ほとんどは是非とももう1度行ってみたいと思えるような街でした。その中で最も印象深かった街はといえばやはりMoenchengladbachという街です。少しですがこの街についてふれたいと思います。

まずこの名前を多くの人は知らないでしょう。この街はDuesseldorfから西へ30kmもないようなところ位置し列車でも30分間で到着する街です。人口は30万もいないような中都市です。自分が知り合ったドイツ人にも行ったことがあると言っていた人はいませんでした。しかし,旅行ガイドである「地球の歩き方」にはしっかりと2ページ分も載っているような街です。なにが有名かと言えば,この街は現代美術に興味がある人には有名であるらしいアプタイベルグ美術館(Museum Abteiberg)があるということでした。それともう一つ有名なのはサッカーチームの名門であるBorussia Moenchengladbachのホームであるということで,自分は後者の方が目的で行きました。

この街にはたったの1泊しかしませんでしたが街自体の規模があまり大きくなく,1日でゆっくり見て回れるほどでした。この街のどこがよかったのかというと,訪れたのは土曜日の朝8時ぐらいだったのですが,大都市ではない街のとおりで街自体がまだ目を覚ましてはいないという感じで人影もほとんどいませんでした。それまでMuenchenに滞在していたので,初めての中都市ですごく新鮮な気がしたものでした。しかし2時間もすると店も開店してきて,この街のメインストリートであるヒンデンブルグ通り(Hindenburg-strasse)には人がだんだんと増えてきました。そこでは今までの街とは違ってここには旅行者らしい人はほとんどいなくて,自分も旅行者ではなくここの住人のように週末の朝を楽しむかのようにゆっくりと人の流れにあわせて歩くことができました。はっきり言って,自分は他には何もせずにのんびりとこの街の景色を楽しんだだけでしたが,ここの街はその名前の由来のとおりに(Moencheは「修道士」の意味)教会が街の至る所にあり,非常に珍しいものでした。この街のいいところと思ったのは,ほとんどすべとのものがヒンデンブルグ通りからそれほど離れていないところにあるのでたいして歩かずにたくさんのものを見ることができました。この通りは中央駅にすぐ面しているのですが,そこから繁華街は少し上り坂になっているのですが,その一番小高いところから見たこの通りはたいへんすばらしいもので人の流れの活発さが一目瞭然でした。

午後にはサッカーを観に行ったのですが,ここのスタジアムはとても狭くて店頭ではチケットが買えないほどでした。しかし親切な人と知り合え値引きまでしてチケットを買うことができました。スタジアムの中では立ち見席しかなかったのですが,それはそれで非常に楽しめました。

最後に,この街は旅行の途中で行くのもいいですが,やはり少しの期間でもいいから住んでみたい街という印象を受けました。この街に住んでいたら,たぶんどこにいても教会が見えるだろうし,朝日や夕陽を受けた教会の素晴らしさはきっと日本では味わえない光景でしょう。今度行くときには別の季節で別の感じのする時に行ってみたいと思っています。

ベルリンのうた(ベルリン雑感) [中山布紗(九州大学大学院法学府)]

私をベルリンにいざなったもの

1997年の3月から1ヶ月,ドイツ研修参加という絶好の機会に恵まれた私は,早くからベルリン行きを決めていた。しかし,なぜベルリンに固執したか?統一してから7年経つというのに,旧西ドイツとの経済格差が激しく,治安も悪く,外国人排斥も年々激化しているというのが現状。危険なスポットであるがゆえに,スリルを味わいたいという好奇心でいっぱいであった。しかし,私をベルリンにいざなった最たる要因はそんなものではない。社会が未だ混沌として,不安定ではあっても,ベルリンは今確かに成長の真っ只中にある。高度経済成長の終わりに生まれた私は,常に「飽和状態」の中で育ち,「渇く」ということを経験したことがなかった。不幸なことに,そのために失ってきたものもまた多い。精神がマヒしていることを自覚した私は,ベルリンが必死に伸びようとしている姿を実際に見ることで,現代の日本社会ではなかなか感じ取れない「ハングリー精神」(無から有を生むチカラ)をなんとしても学びたかったのである。たった3日間の滞在ではベルリンの一側面を断片的にしか吸収することができなかったが,実際にベルリンを滞在して感じたことを織り交ぜて記述していきたいと思う。

景観から考察するベルリン

季節柄か,どこを見渡しても「どんより」の一言に尽きる。しかし,駅には活気があった。騒然としていて,人ばかり。そういえばベルリンで交通に困ったことはない。地下鉄路線は充実しているし,Sバーン(近郊列車)の乗り換えもスムーズ。バスも本数が多い。とにかく利用しやすいのだ。40年もの間社会主義体制のなかで停滞し,西側と比べて確実に遅れてしまった東ベルリン。しかし,かつてドイツの文化・芸術・経済の中心として栄えていたこともまた事実である。その名残がこの「交通網の充実」であると感じた。あちこち歩き回って,工事現場がやたらと点在し,社会主義のパネル構造時代の瓦礫の山や,コンクリートブロック,クレーンの行列,無造作に組み込まれた鉄骨に出会わなかったことはない。しかし,工事中といっても作業人が一人もいないのだ。このような状態を前に私は,失礼ながら(ヤル気はあるのか?ベルリンよ。)と思ってしまった。地下鉄やSバーンの駅付近や大きな道路のある表通りは,人が集まるせいか,売店やカフェ,デパートや事務所が比較的多いのに,裏通りはがらんどう。「どこから手をつけていいのかわからず,どうにも前に進めないんだよ。」と街に愚痴をこぼされたような感覚に襲われた。どうせ遅々として作業が進まないなら,先に交通網に沿って景観を整備し,それに合わせて内部を建て直していけば能率がいいのに…,と考えた。が,その瞬間にはっとした。2年前,阪神大震災に遭遇したことを思い出したのだ。(高校時代まで私は大阪に住んでいた。)

震災により,街はメチャクチャ,交通網も完全に遮断され復興の見通しさえ把握できない状態に,人々は呆然とした。しかし,あれよあれよという間に景観は取り戻され,かつてのおしゃれな神戸の姿が完全に蘇った。日本の技術の高度さ,素晴らしさを誇ってもいいとさえ思った。ところが実際は,住む家を失い,また新土地区画整備により土地を奪われた人々が大勢いた。急いで外観だけ応急処置のように塗り固めた内部で,仮設住宅がなおひしめき合い,「いつ追い出されるか。」という不安にさいなまれながら日々を送る人々がいた。現在も震災の悲劇は終わることなく,水面下で数多くの問題が紛糾している。そんなこと,すっかり忘れていた。震災の被害者であったハズなのに。すっかり頭から抜け落ちていたのだ。もし,今のベルリンで阪神大震災後の復旧工事のように外観だけきれいに取り繕うとしたら,今ベルリンに住んでいる人や,これから住もうとする人たちの「暮らしやすさ」が軽視されてしまう。街だけが暴走し,主体である人間が取り残されてしまえば,莫大な復旧予算などムダ金でしかない。事実,ベルリン州の都市開発・環境保護担当長官フォルカー・ハッセマー氏は,こう述べている。「数百万人規模に達する可能性のあるこの地域の人口増加の大部分は,すでに建物が建てられている地域の中に収容されなければなりません。我々の計画は,すでに建物が建てられている町をより有効に徹底利用し,密度を高め,拡大は必要な限度に絞ることにあります。」

街を造るということは,人と向き合うこと。人と同じ歩幅でじっくりやっていかなければならない。それがいつ終わるかわからない「長期戦」であるとしても。どうやら,日本社会も私も「長期戦」に慣れていない,いや,はじめから投げ出していたらしい。

外国人労働者の強靭な精神力

「これ買っていきなよ。品質は保証するぜ。それに,これも3つおまけでつけるから。もう時期復活祭だしな。」ブランデンブルク門目指して一人歩いていたら,土産を売る外国人労働者の威勢のいい掛け声に呼び止められた。見渡すと,ここにも,そこにも,あそこにも!まるで小さな商店街を形成しているように通りに沿って,商売道具を並べてドイツ語で観光客にたたみかける彼らの姿は,たくましく,ポジイテイブであった。ドイツに外国人労働者が多いことは承知していたが,ベルリンは特に多い。カフェや,地下鉄・バスの中,街頭と,いたるところにドイツ人に混じって,彼らはそこにいた。トルコ人をはじめ,ユーゴスラヴィア人,黒人,インド人など人種は多種多様。見知らぬ私に笑顔で手を振り歩み寄ってくるのも,彼らだった。

ここはドイツなのに,ドイツ人が元気がない。特にここベルリンは・・・。ドイツという国柄が硬いから人々の表情も凛としているのだ,40年も社会主義に染まってたのだから仕方ないよね,ドイツ人は警戒心が強いんだ,などといろいろ考えた。でも違う。何かが違う。民族が,境遇が違っても,私の人間のカンは鋭かった。ベルリンではドイツ人よりも,外国人労働者の方が堂々として,輝いていた。(もちろん,すべてがそうではない。)

壁の崩壊直後は,東側の人々は競って西の豊かさを共有しようとなだれ込み,西側の人間も「東側の同胞」を熱狂的な歓迎をもって受け入れた。しかし,現在ではその熱狂も冷め,西も東もお互いに統一を待ち望んでいたのに,「見えない壁」が立ちはだかって,心理的な溝が深まっている。西側の人間は,東側との格差を埋めるために経済的な援助を惜しまず,開発にも乗り気だ。なのにどうして東側の連中はついてこないのか?という思いでいる。また東側の人間は,西の豊かさについていきたい,追いつきたいという気持ちはあるものの,競争社会に慣れておらず,疲れきっている。そして,西側に取り残されたように感じ,旧体制を懐かしむまでに傷ついているというのだ。

ドイツでは近年失業者問題を抱えているが,ベルリンは最も深刻な状態にある。数年前,ベルリンで失業者たちがトルコ人や韓国人労働者の多く居住する地域を焼き討ちしたというニュースが私の中でオーバーラップした。もし,私がベルリンの失業者だったら,一緒になって外国人排斥をしていただろう。西側の豊かな生活を知ってしまったことで,自分のみじめな姿に気付き,西側の人間に対する嫉妬が憎しみとなり,また,ヨソ者であるある外国人でさえ職を得て豊かに暮らしているというのに・・・。という思いが自尊心を傷つけるだろう。そういえば,ベルリンの街は「仕事場」が少ない。大きな街なのに,経済が動いていない。そんな街だった。都市開発がゆっくりと進められるなら,仕事場を確保し,ドイツ人たるベルリン人に過不足なく提供されることを願って止まない。また,外国人労働者のひたむきに生きる姿が,ベルリン人のパワーを触発させるものならいいのに・・・と思うと,彼らの威勢のいい掛け声も恨めしく響くばかりであった。

発展途上であるということ

ベルリンの現状は傍観者である私にとっても,ひどいものであった。悲惨な事実を目の当たりにしたからではない。むしろ,解決すべき問題が手付かずのまま転がっている中でも,街も人も毎日動いているし,時間も流れていくという「平凡さ」を恐ろしく感じたからだ。どんなにひどい状態であっても,人は普通に生きて行けるという点に驚き,そして感動した。自分が生きている今が発展している最中かどうかはわからない。ただ,振り返ったときに「発展した。」という事実が光るのだ。なぜそう思ったのかというと,私がベルリンをどんなに一生懸命見つめても,発展している最中かなんて確信できなかったからだ。人は走り続けている間は何も考えられないのだろう。

抽象論に陥ってしまったが,最後にひとつ。ベルリンではカイザーヴィルヘルム記念教会や戦勝記念塔などの貴重な文化遺産をはじめ,建物や公共物にまで落書きがなされ,日本よりもすざましかった。(落書きの中にはかなり芸術的完成度の高いものもあったが…。)こうした落書きは若者によってされるのだろうが,どこの国でも若者は現状打開の「希望の星」であり,「危険分子」であると感じた。心無い落書きは,ベルリンを美しく蘇らせようと奮闘する人々の熱意を踏みにじるものだ。しかし,その熱意を受け継いで守っていくのもまた,落書きをする若者である。こうしたことを考えると,「今の日本もまだまだ捨てたもんじゃない。十分育てがいがあるではないか。」と思ってしまう。

ベルリンに来てわかったことがある。それは,私の中に「ハングリー精神」があったからこそ,渇いていたからこそ,ベルリンを訪れたということだ。(頼りない結びであるが,雑感なのでお見逃しいただきたい。)ベルリンが過去を振り返り,苦難に満ちた道程を歌い出すゆとりができる日を,私は心待ちにしている。

ベルリンが歌い出すそのとき,私は再びベルリンに祝福をもって会いにいくであろう。

ドイツの近代化と日本 [原田大樹]

はじめに

ドイツの近代化が日本に多大な影響を与えたことは,今日よく知られている。例えば大日本帝国憲法は当時のプロイセン憲法を模範として起草されたし,初代首相の伊藤博文がプロイセン(のちドイツ帝国)宰相のビスマルクを憧憬の念をもって眺めたことも知られている。日本はなぜドイツに「近代国家」の範を求めたのだろうか。また日本とドイツの歴史的な共通点,相違点は何だろうか。こうしたことを明らかにするのがこのレポートの目的である。

ドイツの近代化

1.ドイツの前近代

@ドイツ民族とドイツ国家

ドイツの歴史を考えるにあたって,まず確認しておかなければならないのは,ドイツには「地理的な枠組みがない」ということである。
フランスの歴史家シーグフリードは,その著作「諸国民の魂」の中でドイツについて次のように述べている。「その(ドイツ民族の)統一性はフランスにおけるのとは違い,ある地域に民族を結びつける紐帯のなかにあるのではなく,自分の言語・文化・統一についての知覚を持っている種族であるという意識,あるいは少なくとも,そうなろうという意志の中にある。」
ドイツ民族という集団は,日本人が考えている民族像,つまり「日本語を話し,日本に先祖代々住んでいて,共通の文化を持つ人々」はドイツ民族にはあてはまらない。また日本人が考える他民族国家像,つまり「単一国家に複数民族」という考え方もドイツという国を正確に説明するものではない。ドイツ民族は複数国家に分かれている民族なのである。ドイツ民族は国境を越えて「ドイツ語」「ドイツ文化」を共有する人々という意味を持つ言葉なのである。

Aドイツの黎明

ドイツはゲルマン民族の国である。ゲルマン民族が歴史の表舞台に登場するのは375年のいわゆる「ゲルマン民族の大移動」である。原住地はスカンジナビア半島南部から北ドイツであったゲルマン民族が,アジア系遊牧民のフン族侵入でローマ帝国領内に侵入したというのがその概要である。このときゲルマン民族はヒトラーのいう「世界でも優秀な民族」という評価はなく,むしろその反対であった。ローマ帝国が当時のヨーロッパをリードする存在であるとすると,ゲルマン民族は野蛮人であった。
ゲルマン民族の大移動は約200年つづき,その間に彼らは部族王国を各地に建設した。またフランク族はゲルマン的伝統を保持しつつローマ人との融和に成功し,ゲルマンの中でも有力な存在になった。476年,西ローマ帝国はゲルマン人の傭兵隊長オドアケルに滅ぼされた。
768年,フランク王国の王となったカール大帝は領土の拡張に成功し,旧西ローマ帝国の領土をほとんどおさえた。その結果800年,ローマ教皇はカール大帝にローマ帝国の王冠を与え,ここに西ローマ帝国が復興した。ここまでは中学校の歴史で学ぶことである。
さて,ドイツはどのようにしてその国家としての黎明期を迎えたのだろうか。その歴史はフランク王国にさかのぼる。843年のヴエルダン条約,870年のメルセン条約でフランク王国は分割され,現在のフランス・ドイツ・イタリアのもとになったといわれている。このうち東フランク王国は現在のドイツにあたる。東フランク王国は911年王朝が断絶し,その後ザクセン(サクソニア)王朝が成立した。その王オットー1世は領土を拡大し,ローマ教皇を助けたことにより962年,ローマ皇帝の帝冠を授けられた。ここに神聖ローマ帝国が成立した。
神聖ローマ帝国は一つの王朝が引き続いて帝位につくわけではなく,何度も王朝の交代があった。歴代皇帝はイタリアの経営に気を取られてドイツ本国を省みなかったため,ドイツ領内では小国分化がはじまった。

B神聖ローマ帝国とドイツ

シュタウフェン家のフリードリヒ1世のころ神聖ローマ帝国は絶頂期を迎える。彼は領土拡張を積極的に行い,イタリア遠征をたびたび実行する。また十字軍にも参加してローマ帝国の時代の復活を目指した。また学術を奨励するなど国内政策も積極的であったとされている。
ところがその跡を継いだフリードリヒ2世になると,イタリア政策への傾倒からドイツ本国がおろそかになり,神聖ローマ帝国は力を失い始める。そしてシュタウフェン家が断絶するに至ると,皇帝が存在しない時代(大空位時代)を迎え,帝国の権威は落ちてしまう。一方,このころ十字軍と並行して東方植民政策がおこなわれ,ドイツ騎士団領が成立する。これがのちのプロイセンの源流となった。
大空位時代がハプスブルク家のルドルフ1世即位で終焉を迎えても神聖ローマ帝国の力は以前のように回復しなかった。ルクセンブルグ家出身のカール4世は金印勅書で皇帝の選挙を規定したが,これも皇帝権力の弱体化を招いた。
諸侯は領邦国家とよばれる地域国家を建設し,北ドイツの自由都市はハンザ同盟を組織し,商業が大きく発展した。また神聖ローマ帝国の皇帝は15世紀からオーストリアのハプスブルク家が独占した。

C宗教改革と30年戦争

このころ,ドイツでは免罪符の発行を発端として1517年,ルターが宗教改革をスタートさせ,その影響はドイツ全域に広がった。当初新教を認めなかった当局側も,1555年にアウグスブルクの和議で諸侯・自由都市に対して信仰の自由を認めた。しかしこれは国民に対してではなく領邦・自由都市に対して認めたものであったため,最後にして最大の宗教戦争である「30年戦争」を引き起こした。
1618年,オーストリアの属領であったボヘミアの新教貴族がハプスブルク家のカトリック強制に対して反乱を起こしたことをきっかけにドイツ30年戦争がはじまった。このころ西ヨーロッパ諸国では絶対主義による統一国家が出現し,それらは政治的意図を持ってこの戦争に介入した。ハプスブルク家の強大化を危惧するイギリス・オランダ・スウェーデンは新教側を支持し,またフランスもハプスブルク家との対立から新教側に参戦した。結局この戦争は新教有利のまま1648年のウェストファリア条約で終了した。
30年戦争は各国の傭兵つまり雇い兵が戦力の中心となったため,戦場では略奪や暴行が横行した。国際法の父といわれるオランダのグロティウスはこの様子を見て,戦時中でも各国が守らねばならぬ法が存在することを訴え,「戦争と平和の法」を著した。30年戦争は国際法を誕生させた。これを背景としてウェストファリア条約は近代最初の国際条約とみなされ,フランス革命までの国際関係の基調となった。
この条約で,宗教的には「支配者の宗教」の原則が確認され,政治的にはスイス・オランダの正式な独立,旧神聖ローマ帝国領のアルザス地方などのフランスへの割譲などが決められた。もっと重要なことは,ドイツ領邦国家の主権が完全に保障され,神聖ローマ帝国が有名無実化したことである。
30年戦争の結果,ドイツの人口は3分の2に減少し,国土は荒廃した。ドイツの後進性は決定的となり,ドイツ近代化は他のヨーロッパ諸国に比べて遅れることになった。

2.プロイセンの台頭

@プロイセンの成立

プロイセンはドイツ騎士団領とブランデンブルク選帝侯領とが1618年に合併してプロイセン公国として成立した。ブランデンブルクを支配してきたホーエンツォレルン家が支配し,フリードリヒ=ヴィルヘルムのとき30年戦争に参戦して領土を広げた。一方で絶対王政を確立し,スペイン継承戦争で皇帝に協力したことにより王号を得て1701年,プロイセン王国となった。その子,フリードリヒ1世(神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世とはもちろん別人)は官僚制と軍制を整え,軍国主義的な絶対王政を確立した。さらにその子フリードリヒ大王は,啓蒙専制君主として君臨し,産業の奨励や教育の普及に力を入れた。
1740年,オーストリアでマリアテレジアが即位すると,バイエルン・ザクセンは女帝であることに異議を唱え,フランスなどと連合してオーストリア継承戦争をおこした。これにプロイセンが参戦し,資源豊かなシュレジエン地方を獲得した。同戦争後,オーストリアはシュレジエン地方の回復を目指して内政の充実をすすめ,対外政策としてはフランスと同盟した。これはそれまで歴史的に対立してきたハプスブルク対ブルボンの構図を一変させたため外交革命とよばれる。これを背景にプロイセンとオーストリアは7年戦争を戦ったが結局オーストリアの失地回復はできなかった。マリアテレジアの子,ヨーゼフ2世も典型的啓蒙君主として開明政策をすすめた。しかし保守層の反対にあって改革は挫折した。

Aフランス革命とウィーン体制

フランス革命は当時の絶対王政国家に大きな衝撃を与えた。オーストリアもプロイセンも他の絶対王政国家と同様,フランス革命に干渉した。ところがナポレオンの登場でオーストリアもプロイセンも同盟を結びナポレオンと提携せざるを得なくなった。その他のドイツ領邦国家はライン同盟を結んでナポレオンに服属した。
ナポレオンが列強との戦いに屈した後,ウィーン体制と呼ばれる体制が成立する。1814年ナポレオン後のヨーロッパ秩序について話し合うウィーン会議がもたれた。会議を主導したのはオーストリア宰相のメッテルニヒだった。ウィーン体制はフランス革命前の状態にもどすことを基調とする反動的なものであった。
このウィーン体制のもとでプロイセンとオーストリアはドイツを代表する国家となる。ということはつまり神聖ローマ帝国が解体したことを意味する。ドイツの領邦国家や自由市がドイツ連邦を形成することになったのである。
しかしウィーン体制は,自由主義への流れとラテンアメリカの独立という状況の変化で,次第に維持が難しくなってきた。そのような中1848年に勃発したフランス2月革命は,ウィーン体制の屋台骨を揺るがした。つづいてドイツでは3月革命がおき,オーストリアではウィーン体制の主導者メッテルニヒ宰相が亡命し,プロイセンでは国王が自由主義に譲歩して立憲王政を宣言した。

3.ドイツの統一と近代化

@統一の主導権

1834年,プロイセンの提唱でドイツ関税同盟が成立した。この同盟にはオーストリアをのぞくドイツ諸邦が参加して,経済的統一が果たされた。
政治的統一にはその手段として「自由主義的」手段と「武力」の2つの選択肢があり,またその主導国として「プロイセン」と「オーストリア」の2つがあった。
主導国問題については,オーストリアを中心とする統一を主張する「大ドイツ主義」とプロイセンを中心として統一しようとする「小ドイツ主義」とが対立したが,経済力あるいは軍事力からみてプロイセン有利であったことから小ドイツ主義に落ち着いた。また手段問題は,3月革命後に開かれたフランクフルト国民議会が,プロイセン国王をドイツ皇帝に推挙したものの,革命派からの帝冠を断るとしたフリードリヒ4世により自由主義統一は不成功となった。

Aビスマルクの登場

1862年,外交官としてフランスにいたビスマルクが,プロイセン国王ヴィルヘルム1世に指名されて首相に就任した。ビスマルクは就任直後の議会で「ドイツの現在の大問題は,言論や多数決では定まらない。これを解決するのはただ鉄と血である。」と演説した。このことから彼を鉄血宰相と呼ぶ。彼は軍事力を背景にオーストリアとの戦争に勝利し,オーストリアを排除した「北ドイツ連邦」を成立させた。さらに,フランスとの戦争で南ドイツとライン川左岸でのフランスの影響力を排除した。1871年,プロイセン国王ヴィルヘルム1世はベルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し,ここにドイツ帝国(第2帝国)が成立した。ドイツ統一がなされたのは日本の明治維新とほぼ同じ頃であった。

Bビスマルクの政策

ドイツは統一後,資本主義を著しく発展させ,一躍ヨーロッパの中心となった。ビスマルクは保護関税政策をとって大資本やユンカー(商業的農業経営者,日本で言うと大地主がそれに近い存在)を保護した。また金融制度や鉄道網の発達も経済発展に寄与した。
ビスマルクは領土的野心の強い人物ととられがちだが,実際はそうではない。彼はドイツ統一後は平和と現状の維持を信念とし,対ドイツ復讐に燃えるフランスを国際的に孤立化させる政策をとった。1881年にはロシアとの関係を強化し,翌1882年にはドイツ・イタリア・オーストリアの三国同盟を成立させ,フランスとの勢力均衡をはかった。またフランスと世界政策で対立していたイギリスとも友好関係を続けていた。このような国際情勢をビスマルク体制と呼ぶことがある。

明治維新とドイツ

1.日本とドイツの歴史的つながり

日本とドイツは早くも鎖国時代からつながりをもっていた。鎖国時代,オランダ人として入国を認められたドイツ人がその担い手であった。代表的なのがケンペルとシーボルトである。
ケンペルは長崎出島のオランダ商館意思として徳川綱吉時代の日本を訪れ,その見聞を「日本誌」にまとめた。この記述はヨーロッパの知識人の情報源となった。モンテスキューの「法の精神」などにもその影響がみられる。
シーボルトはやはり医師として来日したが,当時としてはめずらしく出島の外の鳴滝の地に居住が許され,鳴滝塾を開いて高野長英らの教育をしたことは有名である。彼はいわゆるシーボルト事件で追放されるが,その後日本が開国してから再び日本にやってきている。
日本の開国とともにプロイセンも他の列強と同様に日本と条約を締結するために使節をおくってきた。ところが当時の日本(江戸幕府)にはプロイセン以外にも多くの国と条約を結ばねばならない連邦国家・関税同盟のしくみが理解できず,日本側交渉担当者が自殺するという悲劇を生んだ。とりあえず1861年,プロイセンのみを相手とする条約が締結された。

2.明治維新とドイツ

@ドイツをモデルとした理由

明治維新もドイツの近代化もほぼ同時にスタートしたという考え方は,一方で誤解を招く表現である。というのは例えば日本におけるドイツの「プロイセン」的存在を薩摩藩や長州藩と比定したとしても,あるいはそれらを糾合した「朝廷側」と比定しても,その力はプロイセンとはほど遠いものであったということである。ドイツはヨーロッパの中で近代化後進国だったのであって,日本にしてみればイギリスやフランスと同じ存在であったことに注目すべきである。
明治政府がドイツにその近代化の範を求めた理由は次の2つであると思われる。その第1は,ドイツが皇帝の権力の強い政治システムをとっていたからだとされている。イギリスのように国王が民意のもとで政治を執るスタイルは天皇を中心として国土を統一した日本の国情にそぐわない。そこでドイツ型が望ましいとされた,というものである。統一の過程でそれまで分権的であったものを中央集権的体制に変更していったドイツの姿が,日本と同じだとみなされたこともその要因であったかもしれない。
第2は,ドイツはその頃,ものすごい勢いで経済発展をしており,技術的にもすぐれたものを生んでいたということである。発展途上の国をモデルとする方が,イギリスのようにすでに発展してしまった国をモデルとするより実用的であると考えたのかもしれない。

Aドイツの影響

ここではドイツの影響について法律の分野で具体的に検討する。日本はもともとフランス法にその範を求めていた。フランス人の法律顧問ボアソナードの存在は日本史の上ではポピュラーなものである。しかし@でふれた理由により,また付け加えればドイツ留学生の力もあって法律は次第にドイツに傾倒していった。
憲法
ドイツの影響が最も知られているのが大日本帝国憲法である。国王の権力が強く,立法権が弱いという特徴を持つプロイセンの憲法を模範として,明治憲法は起草された。
民法
もともと民法はフランス法の影響を受けて成立していたが,その施行前に「民法典論争」がおきた。フランス風の民法では日本の旧来の美風を損ねるという主張が展開されて,民法の施行は中止された。そしてドイツ民法の草案の影響を受けた新民法が成立,施行され現在まで約100年にわたって使われている。」というのが高校の日本史の説明であるが,実際は少し違う。確かに民法はドイツ法の影響を受けているが,実はその規定の大半はフランス民法を受け継いでいるのである。学説も一時はドイツ的解釈が主流となったが,その後はフランス的解釈が主流となった。このような学説変動の背景にはドイツの国勢が多少なりとも影響しているのではないかと思われる。つまり第1次大戦で敗れることでドイツに対する日本の評価が一変したことがこの根底にあるのではないだろうか。
刑法
民法に比べてその影響を圧倒的に大きくうけたのが刑法である。これも当初はフランス風刑法であったものを改正して,今のドイツ的な刑法になった。

この他には,医学・軍制などの分野でドイツの影響が多大であった。その名残?なのか現在でも大学の第2外国語としてドイツ語を選択する人が結構多い。

終わりに

ドイツの歴史は日本の歴史とかなり異なる。島国としてある程度の民族の統一性を維持しつつ,海外からの侵略をほとんど受けずに歩んできた日本と,常に他国とのパワーバランスの中で生き,ただドイツ語とドイツ文化とをよりどころとしてきたドイツでは,価値観や思考過程が違うのは当然である。
しかしそれと同時にこの2国の共通性にも注意を向けねばならない。近代化の後進国としての立場,第2次大戦の敗戦から奇跡の経済成長をとげたそのあゆみに共通性が認められる。日本にとってドイツは第1次大戦の敵国期をのぞき,「師匠」であり「同僚」でありつづけたと言ってもよい。
ドイツと友好関係を築くことは戦前の三国同盟を連想させるためか,ドイツとの連携をよく思わない考え方もあるが(ドイツについてよく知る前の私はまさにそれであった),それはおそらく間違いであろう。近代という荒波の中,ほぼ一貫して友好関係を持っていた国はそれほどない。ドイツはそのめったにない国の一つであったことは間違いない。これからも「同僚」として「師匠」として日本にとって重要なパートナーとなることは疑い得ないと思う。

中世ドイツの歴史探訪 [福添右祐(九州大学法学部・平成12年卒業)]

まず始めに断っておきたい。このレポートは,あまり詳しい資料を用いていない。なるべく自分の言葉で書こうという意図もあるが,生来の怠惰な性格により,積極的に資料を集めようとしないままに書かなければならなくなったというのが大部分の理由である。ここで,これを読んでくださる皆さん,また,いっしょのグループの皆さんに心よりお詫びを申し上げたい。また,万が一事実に基づかない誤った記述,人や国家を中傷するような記述があれば,すぐに訂正していきたいと思うので,私宛にメールで意見をお寄せいただきたい。

皆さんの「ドイツ」観はどのようなものであろうか。ヨーロッパ屈指の工業国であり,EUの中核をになう国家,第二次大戦におけるファシズムの中心国家,または世界に名だたるサッカー強国など,人によってさまざまなイメージを持っているだろう。

そしてもっともイメージされる時代が,「中世」であろう。湖畔に浮かぶ美しい城,甲冑をまとった騎士,お姫様を助けに来る白馬の王子など,物語の世界にそれは色濃くあふれている。「中世ドイツ」というと,まずはこのような美しいイメージしか浮かばないが,実際はどのような時代だったのだろう。

ゲルマン人の大移動により,ヨーロッパ・北アフリカに多数のゲルマン国家ができたのはご存知のことと思う。しかしその中で生き残った国は僅かであった。長旅による疲れが,彼らの寿命を縮めてしまったのだろう。その中で,比較的移動の短かったフランク族は,ヨーロッパ西部に力を伸ばし,カール大帝の時代には「西ローマ帝国の再来」と呼ばれるほどまで力を伸ばした。

しかし,大帝の死後,ヴェルダン・メルセンの両条約により,フランク王国は,西部,中部,東部と3つに分裂してしまった。このうち,西部が後のフランス,中部が後のイタリア,東部が後のドイツとなる。

時は流れて962年,アヴァール人の侵入を撃退したザクセン朝のオットー一世が,その功績により,ローマ教皇より,「神聖ローマ帝国」の帝冠を与えられた。しかし,この「神聖ローマ帝国」,名前は立派だが,その実,帝国内は常時分裂状態だった。各時代の皇帝が,その名の通りローマに支配圏を伸ばさんとしたため,国内統治をおろそかにしたからである。そのため,ドイツは後々まで一つにまとまることがなく,世界進出が他の列強に遅れることとなる。

そんな折り,ドイツは一つの危機を迎える。モンゴル帝国がロシアを征服して,ヨーロッパに侵攻してきたのである。モンゴル軍の司令官はバトゥ。チンギス・ハンの孫である。神聖ローマ軍は,これをリーグニッツで迎え撃ったが,百戦錬磨のモンゴル軍の前に大敗を喫してしまった。これが世に言うヴァルシュタット(血だらけの丘)の戦いである。そのままモンゴルが侵攻するかに思われたが,ちょうど当時の皇帝オゴタイ・ハンが死去したため,モンゴル軍は引き上げていった。ロシアが,その後300年におよぶ「タタールのくびき」と呼ばれる屈辱を受け,その後の発展が妨げられたことを考えると,もしそのまま侵攻されていたらその後の世界の歴史は大きく変わっていたに違いない。

ドイツにおいてルターが始めた宗教改革は,ドイツ国内に大きな混乱をもたらした。当初は,領主がカトリック,農民がプロテスタント,といった単純な構図であったが,その後,ルターを指示する諸侯も現れ,これらの諸侯間で争いが始まった。これがシュマルカルデン戦争の大まかな構造である。また,農民たちも,諸侯に対して火の手を揚げた。その代表的なものがトマス・ミュンツァーの一揆である。この農民一揆は,当初は信仰の自由を純粋に求めるものであったが,どさくさに紛れて略奪・強盗をするものが現れ,これが,当初農民たちに同情的だったルターをして,農民反乱を鎮圧するよう言わしめた原因となった。

後のドイツ帝国の基盤となるプロイセンについて,これは,十字軍遠征の際に成立したドイツ騎士団領と,ブランデンブルク選帝侯領が合併して成立したものであり,ブランデンブルクを支配してきたホーエンツォレルン家が支配した。その後,スペイン継承戦争での活躍により,王国となった。軍隊王と呼ばれたフリードリヒ=ヴィルヘルム一世は,官僚制と軍備を整え,絶対王政を確立した。大男ばかりを集めて,「ポツダム巨人軍」と呼ばれる精鋭部隊を作った王としても知られている。

その息子フリードリヒ二世(大王)は,そんな父親と対照的に,軍隊を嫌い,本ばかり読むような少年で,王位を継ぎたくないといって,家出までするようなエピソードも残されている。しかし,王位を継いでからは,それまでとは人が変わったような政策に出始めた。ハプスブルク家をマリア・テレジアが継承すると,他の諸侯やフランス等とともに異議を唱え,オーストリア継承戦争に参戦し,肥沃なシュレジエン地方を手に入れた。マリア・テレジアは,これを取り戻さんとするため,仇敵であるフランスブルボン家と手を組んだ(外交革命)。七年戦争においてプロイセンは,この2国に加えて,ロシアのエリザベータ女帝まで敵に回し,ベルリン陥落の一歩手前まで追いつめられた。フリードリヒは死を覚悟し,服毒自殺まで図ろうとしたが,ロシアのエリザベータが急死し,フリードリヒを尊敬するピョートル三世が和議を申し出たため,形勢を挽回して勝利を収めた。結局,マリア・テレジアは外交革命までして,シュレジエンを取り戻せなかったのである。

フリードリヒは,啓蒙思想家ヴォルテールなどと親交を持ち,「君主は国家第一の僕」という言葉を残すなど,啓蒙思想を持っていたことで知られ,彼の住んでいた宮殿にちなんで,「サン・スーシーの哲人」と呼ばれた。しかし,実質的には王の専制という体制は変わっていなかったので,彼のようなタイプの君主を啓蒙専制君主といい,その他の啓蒙専制君主として,オーストリアのマリア・テレジアの息子のヨーゼフ二世,ロシアのピョートル三世の元皇妃で,後に夫を殺害して帝位に就いたエカチェリーナ二世などがあげられる。フリードリヒ二世によって固められたプロイセンの基盤は,後のドイツ帝国の基盤となっていくのである。

ここまで,不連続にではあるが,ドイツの中世をたどってきた。これをみると,中世のドイツの混沌がわかる。近代に入ってから二次大戦の敗戦まで,ドイツは強力な中央集権国家として存在するが,現在のドイツは地方分権の進んだ国家である。中世の分裂状態は,現在になってそういった意味で役立っているのではないだろうか。


最終更新日: 2005年4月1日
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