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paco document中世ドイツの歴史探訪

福添右祐(九州大学法学部)


まず始めに断っておきたい。このレポートは、あまり詳しい資料を用いていない。なるべく自分の言葉で書こうという意図もあるが、生来の怠惰な性格により、積極的に資料を集めようとしないままに書かなければならなくなったというのが大部分の理由である。ここで、これを読んでくださる皆さん、また、いっしょのグループの皆さんに心よりお詫びを申し上げたい。また、万が一事実に基づかない誤った記述、人や国家を中傷するような記述があれば、すぐに訂正していきたいと思うので、私宛にメールで意見をお寄せいただきたい。

皆さんの「ドイツ」観はどのようなものであろうか。ヨーロッパ屈指の工業国であり、EUの中核をになう国家、第二次大戦におけるファシズムの中心国家、または世界に名だたるサッカー強国など、人によってさまざまなイメージを持っているだろう。

そしてもっともイメージされる時代が、「中世」であろう。湖畔に浮かぶ美しい城、甲冑をまとった騎士、お姫様を助けに来る白馬の王子など、物語の世界にそれは色濃くあふれている。「中世ドイツ」というと、まずはこのような美しいイメージしか浮かばないが、実際はどのような時代だったのだろう。

ゲルマン人の大移動により、ヨーロッパ・北アフリカに多数のゲルマン国家ができたのはご存知のことと思う。しかしその中で生き残った国は僅かであった。長旅による疲れが、彼らの寿命を縮めてしまったのだろう。その中で、比較的移動の短かったフランク族は、ヨーロッパ西部に力を伸ばし、カール大帝の時代には「西ローマ帝国の再来」と呼ばれるほどまで力を伸ばした。

しかし、大帝の死後、ヴェルダン・メルセンの両条約により、フランク王国は、西部、中部、東部と3つに分裂してしまった。このうち、西部が後のフランス、中部が後のイタリア、東部が後のドイツとなる。

時は流れて962年、アヴァール人の侵入を撃退したザクセン朝のオットー一世が、その功績により、ローマ教皇より、「神聖ローマ帝国」の帝冠を与えられた。しかし、この「神聖ローマ帝国」、名前は立派だが、その実、帝国内は常時分裂状態だった。各時代の皇帝が、その名の通りローマに支配圏を伸ばさんとしたため、国内統治をおろそかにしたからである。そのため、ドイツは後々まで一つにまとまることがなく、世界進出が他の列強に遅れることとなる。

そんな折り、ドイツは一つの危機を迎える。モンゴル帝国がロシアを征服して、ヨーロッパに侵攻してきたのである。モンゴル軍の司令官はバトゥ。チンギス・ハンの孫である。神聖ローマ軍は、これをリーグニッツで迎え撃ったが、百戦錬磨のモンゴル軍の前に大敗を喫してしまった。これが世に言うヴァルシュタット(血だらけの丘)の戦いである。そのままモンゴルが侵攻するかに思われたが、ちょうど当時の皇帝オゴタイ・ハンが死去したため、モンゴル軍は引き上げていった。ロシアが、その後300年におよぶ「タタールのくびき」と呼ばれる屈辱を受け、その後の発展が妨げられたことを考えると、もしそのまま侵攻されていたらその後の世界の歴史は大きく変わっていたに違いない。

ドイツにおいてルターが始めた宗教改革は、ドイツ国内に大きな混乱をもたらした。当初は、領主がカトリック、農民がプロテスタント、といった単純な構図であったが、その後、ルターを指示する諸侯も現れ、これらの諸侯間で争いが始まった。これがシュマルカルデン戦争の大まかな構造である。また、農民たちも、諸侯に対して火の手を揚げた。その代表的なものがトマス・ミュンツァーの一揆である。この農民一揆は、当初は信仰の自由を純粋に求めるものであったが、どさくさに紛れて略奪・強盗をするものが現れ、これが、当初農民たちに同情的だったルターをして、農民反乱を鎮圧するよう言わしめた原因となった。

後のドイツ帝国の基盤となるプロイセンについて、これは、十字軍遠征の際に成立したドイツ騎士団領と、ブランデンブルク選帝侯領が合併して成立したものであり、ブランデンブルクを支配してきたホーエンツォレルン家が支配した。その後、スペイン継承戦争での活躍により、王国となった。軍隊王と呼ばれたフリードリヒ=ヴィルヘルム一世は、官僚制と軍備を整え、絶対王政を確立した。大男ばかりを集めて、「ポツダム巨人軍」と呼ばれる精鋭部隊を作った王としても知られている。

その息子フリードリヒ二世(大王)は、そんな父親と対照的に、軍隊を嫌い、本ばかり読むような少年で、王位を継ぎたくないといって、家出までするようなエピソードも残されている。しかし、王位を継いでからは、それまでとは人が変わったような政策に出始めた。ハプスブルク家をマリア・テレジアが継承すると、他の諸侯やフランス等とともに異議を唱え、オーストリア継承戦争に参戦し、肥沃なシュレジエン地方を手に入れた。マリア・テレジアは、これを取り戻さんとするため、仇敵であるフランスブルボン家と手を組んだ(外交革命)。七年戦争においてプロイセンは、この2国に加えて、ロシアのエリザベータ女帝まで敵に回し、ベルリン陥落の一歩手前まで追いつめられた。フリードリヒは死を覚悟し、服毒自殺まで図ろうとしたが、ロシアのエリザベータが急死し、フリードリヒを尊敬するピョートル三世が和議を申し出たため、形勢を挽回して勝利を収めた。結局、マリア・テレジアは外交革命までして、シュレジエンを取り戻せなかったのである。

フリードリヒは、啓蒙思想家ヴォルテールなどと親交を持ち、「君主は国家第一の僕」という言葉を残すなど、啓蒙思想を持っていたことで知られ、彼の住んでいた宮殿にちなんで、「サン・スーシーの哲人」と呼ばれた。しかし、実質的には王の専制という体制は変わっていなかったので、彼のようなタイプの君主を啓蒙専制君主といい、その他の啓蒙専制君主として、オーストリアのマリア・テレジアの息子のヨーゼフ二世、ロシアのピョートル三世の元皇妃で、後に夫を殺害して帝位に就いたエカチェリーナ二世などがあげられる。フリードリヒ二世によって固められたプロイセンの基盤は、後のドイツ帝国の基盤となっていくのである。

ここまで、不連続にではあるが、ドイツの中世をたどってきた。これをみると、中世のドイツの混沌がわかる。近代に入ってから二次大戦の敗戦まで、ドイツは強力な中央集権国家として存在するが、現在のドイツは地方分権の進んだ国家である。中世の分裂状態は、現在になってそういった意味で役立っているのではないだろうか。

稚拙な文章であったが、ここまで読んでくださった皆さんに心から感謝したい。冒頭でも述べているが、ご意見等あれば、ぜひお寄せいただきたい。メールの宛先は、la196215@cse.ec.kyushu-u.ac.jpまで。


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最終更新日:1998415
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