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paco documentベルリンのうた(ベルリン雑感)

中山布紗(九州大学法学部)


私をベルリンにいざなったもの

1997年の3月から1ヶ月、ドイツ研修参加という絶好の機会に恵まれた私は、早くからベルリン行きを決めていた。しかし、なぜベルリンに固執したか?統一してから7年経つというのに、旧西ドイツとの経済格差が激しく、治安も悪く、外国人排斥も年々激化しているというのが現状。危険なスポットであるがゆえに、スリルを味わいたいという好奇心でいっぱいであった。しかし、私をベルリンにいざなった最たる要因はそんなものではない。社会が未だ混沌として、不安定ではあっても、ベルリンは今確かに成長の真っ只中にある。高度経済成長の終わりに生まれた私は、常に「飽和状態」の中で育ち、「渇く」ということを経験したことがなかった。不幸なことに、そのために失ってきたものもまた多い。精神がマヒしていることを自覚した私は、ベルリンが必死に伸びようとしている姿を実際に見ることで、現代の日本社会ではなかなか感じ取れない「ハングリー精神」(無から有を生むチカラ)をなんとしても学びたかったのである。たった3日間の滞在ではベルリンの一側面を断片的にしか吸収することができなかったが、実際にベルリンを滞在して感じたことを織り交ぜて記述していきたいと思う。

景観から考察するベルリン

季節柄か、どこを見渡しても「どんより」の一言に尽きる。しかし、駅には活気があった。騒然としていて、人ばかり。そういえばベルリンで交通に困ったことはない。地下鉄路線は充実しているし、Sバーン(近郊列車)の乗り換えもスムーズ。バスも本数が多い。とにかく利用しやすいのだ。40年もの間社会主義体制のなかで停滞し、西側と比べて確実に遅れてしまった東ベルリン。しかし、かつてドイツの文化・芸術・経済の中心として栄えていたこともまた事実である。その名残がこの「交通網の充実」であると感じた。あちこち歩き回って、工事現場がやたらと点在し、社会主義のパネル構造時代の瓦礫の山や、コンクリートブロック、クレーンの行列、無造作に組み込まれた鉄骨に出会わなかったことはない。しかし、工事中といっても作業人が一人もいないのだ。このような状態を前に私は、失礼ながら(ヤル気はあるのか?ベルリンよ。)と思ってしまった。地下鉄やSバーンの駅付近や大きな道路のある表通りは、人が集まるせいか、売店やカフェ、デパートや事務所が比較的多いのに、裏通りはがらんどう。「どこから手をつけていいのかわからず、どうにも前に進めないんだよ。」と街に愚痴をこぼされたような感覚に襲われた。どうせ遅々として作業が進まないなら、先に交通網に沿って景観を整備し、それに合わせて内部を建て直していけば能率がいいのに…,と考えた。が、その瞬間にはっとした。2年前、阪神大震災に遭遇したことを思い出したのだ。(高校時代まで私は大阪に住んでいた。)

震災により、街はメチャクチャ、交通網も完全に遮断され復興の見通しさえ把握できない状態に、人々は呆然とした。しかし、あれよあれよという間に景観は取り戻され、かつてのおしゃれな神戸の姿が完全に蘇った。日本の技術の高度さ、素晴らしさを誇ってもいいとさえ思った。ところが実際は、住む家を失い、また新土地区画整備により土地を奪われた人々が大勢いた。急いで外観だけ応急処置のように塗り固めた内部で、仮設住宅がなおひしめき合い、「いつ追い出されるか。」という不安にさいなまれながら日々を送る人々がいた。現在も震災の悲劇は終わることなく、水面下で数多くの問題が紛糾している。そんなこと、すっかり忘れていた。震災の被害者であったハズなのに。すっかり頭から抜け落ちていたのだ。もし、今のベルリンで阪神大震災後の復旧工事のように外観だけきれいに取り繕うとしたら、今ベルリンに住んでいる人や、これから住もうとする人たちの「暮らしやすさ」が軽視されてしまう。街だけが暴走し、主体である人間が取り残されてしまえば、莫大な復旧予算などムダ金でしかない。事実、ベルリン州の都市開発・環境保護担当長官フォルカー・ハッセマー氏は、こう述べている。「数百万人規模に達する可能性のあるこの地域の人口増加の大部分は、すでに建物が建てられている地域の中に収容されなければなりません。我々の計画は、すでに建物が建てられている町をより有効に徹底利用し、密度を高め、拡大は必要な限度に絞ることにあります。」

街を造るということは、人と向き合うこと。人と同じ歩幅でじっくりやっていかなければならない。それがいつ終わるかわからない「長期戦」であるとしても。どうやら、日本社会も私も「長期戦」に慣れていない、いや、はじめから投げ出していたらしい。

外国人労働者の強靭な精神力

「これ買っていきなよ。品質は保証するぜ。それに、これも3つおまけでつけるから。もう時期復活祭だしな。」ブランデンブルク門目指して一人歩いていたら、土産を売る外国人労働者の威勢のいい掛け声に呼び止められた。見渡すと、ここにも、そこにも、あそこにも!まるで小さな商店街を形成しているように通りに沿って、商売道具を並べてドイツ語で観光客にたたみかける彼らの姿は、たくましく、ポジイテイブであった。ドイツに外国人労働者が多いことは承知していたが、ベルリンは特に多い。カフェや、地下鉄・バスの中、街頭と、いたるところにドイツ人に混じって、彼らはそこにいた。トルコ人をはじめ、ユーゴスラヴィア人、黒人、インド人など人種は多種多様。見知らぬ私に笑顔で手を振り歩み寄ってくるのも、彼らだった。

ここはドイツなのに、ドイツ人が元気がない。特にここベルリンは・・・。ドイツという国柄が硬いから人々の表情も凛としているのだ、40年も社会主義に染まってたのだから仕方ないよね、ドイツ人は警戒心が強いんだ、などといろいろ考えた。でも違う。何かが違う。民族が、境遇が違っても、私の人間のカンは鋭かった。ベルリンではドイツ人よりも、外国人労働者の方が堂々として、輝いていた。(もちろん、すべてがそうではない。)

壁の崩壊直後は、東側の人々は競って西の豊かさを共有しようとなだれ込み、西側の人間も「東側の同胞」を熱狂的な歓迎をもって受け入れた。しかし、現在ではその熱狂も冷め、西も東もお互いに統一を待ち望んでいたのに、「見えない壁」が立ちはだかって、心理的な溝が深まっている。西側の人間は、東側との格差を埋めるために経済的な援助を惜しまず、開発にも乗り気だ。なのにどうして東側の連中はついてこないのか?という思いでいる。また東側の人間は、西の豊かさについていきたい、追いつきたいという気持ちはあるものの、競争社会に慣れておらず、疲れきっている。そして、西側に取り残されたように感じ、旧体制を懐かしむまでに傷ついているというのだ。

ドイツでは近年失業者問題を抱えているが、ベルリンは最も深刻な状態にある。数年前、ベルリンで失業者たちがトルコ人や韓国人労働者の多く居住する地域を焼き討ちしたというニュースが私の中でオーバーラップした。もし、私がベルリンの失業者だったら、一緒になって外国人排斥をしていただろう。西側の豊かな生活を知ってしまったことで、自分のみじめな姿に気付き、西側の人間に対する嫉妬が憎しみとなり、また、ヨソ者であるある外国人でさえ職を得て豊かに暮らしているというのに・・・。という思いが自尊心を傷つけるだろう。そういえば、ベルリンの街は「仕事場」が少ない。大きな街なのに、経済が動いていない。そんな街だった。都市開発がゆっくりと進められるなら、仕事場を確保し、ドイツ人たるベルリン人に過不足なく提供されることを願って止まない。また、外国人労働者のひたむきに生きる姿が、ベルリン人のパワーを触発させるものならいいのに・・・と思うと、彼らの威勢のいい掛け声も恨めしく響くばかりであった。

発展途上であるということ

ベルリンの現状は傍観者である私にとっても、ひどいものであった。悲惨な事実を目の当たりにしたからではない。むしろ、解決すべき問題が手付かずのまま転がっている中でも、街も人も毎日動いているし、時間も流れていくという「平凡さ」を恐ろしく感じたからだ。どんなにひどい状態であっても、人は普通に生きて行けるという点に驚き、そして感動した。自分が生きている今が発展している最中かどうかはわからない。ただ、振り返ったときに「発展した。」という事実が光るのだ。なぜそう思ったのかというと、私がベルリンをどんなに一生懸命見つめても、発展している最中かなんて確信できなかったからだ。人は走り続けている間は何も考えられないのだろう。

抽象論に陥ってしまったが、最後にひとつ。ベルリンではカイザーヴィルヘルム記念教会や戦勝記念塔などの貴重な文化遺産をはじめ、建物や公共物にまで落書きがなされ、日本よりもすざましかった。(落書きの中にはかなり芸術的完成度の高いものもあったが…。)こうした落書きは若者によってされるのだろうが、どこの国でも若者は現状打開の「希望の星」であり、「危険分子」であると感じた。心無い落書きは、ベルリンを美しく蘇らせようと奮闘する人々の熱意を踏みにじるものだ。しかし、その熱意を受け継いで守っていくのもまた、落書きをする若者である。こうしたことを考えると、「今の日本もまだまだ捨てたもんじゃない。十分育てがいがあるではないか。」と思ってしまう。

ベルリンに来てわかったことがある。それは、私の中に「ハングリー精神」があったからこそ、渇いていたからこそ、ベルリンを訪れたということだ。(頼りない結びであるが、雑感なのでお見逃しいただきたい。)ベルリンが過去を振り返り、苦難に満ちた道程を歌い出すゆとりができる日を、私は心待ちにしている。

ベルリンが歌い出すそのとき、私は再びベルリンに祝福をもって会いにいくであろう。

<参考文献>


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最終更新日:1998415
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